戦争の英雄はラノベ系学園ハーレムみたいな青春を謳歌したい(仮)第四話

小説

前話は下記のページからになります。
https://www.osumouwrites-stories.site/hero-romcom-3/

前回のあらすじ

 軍から学園に派遣された指導官ウェッジは、赴任早々に美少女生徒へ突如の告白。拒絶されてもめげず、“ラブコメの王道”を貫こうとするが、学園では彼に関する不穏な噂が流れ始めていた。
 果たしてウェッジは、青春ラブコメの主人公のような学園生活を送ることができるのか――。

変態ロリコン少尉、Dクラス戦闘訓練に現る

 昼前の陽光が、木々の隙間から静かに降り注いでいた。光と影がまだら模様を描き出す広場に、Dクラスの生徒たちが集まり始めている。春の穏やかな陽気に包まれ、彼らはどこか気の抜けた様子で、それぞれ訓練の準備に取りかかっていた。

 シード候補生であるDクラスの面々が集められたのは、バラムガーデン内の戦闘訓練場である。かつて軍直属の士官学校が併設されていた時代には、前線に立つ兵士を鍛えるために設計された練兵施設だった。その遺産は今も色濃く残り、魔導技術の粋を集めた戦闘空間として機能している。

 澄み渡る空気の奥に、肌が粟立つような異様な雰囲気が漂っている。

 ここでは魔素濃度を調整することで、モンスターの出現をコントロールできる。モンスターとは、空間の魔素濃度の数値がある一定のラインを超えた時、異次元から出現したこの世界に生きる者にとっての脅威である。なので、生徒たちはこの場で実戦形式の戦闘訓練を積むのだ。

 フィールドの一角では、戦闘訓練用の軽装に身を包んだ生徒たちが、準備運動をしながら談笑していた。Dクラスの生徒たちは、昨年一年間このフィールドで基礎訓練を積んできた。だからこそ、場慣れした安心感からか、若さゆえの自信過剰と慢心。訓練に慣れたことで気が緩み、明らかな油断が漂っていた。

 だが、そんな弛緩した生徒達の輪の外に、一つの孤影があった。まるでクラスメイトと慣れ親しむのを拒むように、アーシェは一人静かに準備運動を続けている。流れるような動きには無駄がなく、鋭い刃のような研ぎ澄まされた気配を漂わせていた。表情は硬く、意識は張り詰めている。

 その姿を、クラスメイトたちは興味深げに眺めている。ただの興味ではない、どこか意地の悪い好奇心が混ざった視線だ。

 そんな中、生徒たちの中でも群を抜いて大柄な男子生徒が、隣にいたゼルに話しかけた。

「なぁ、あの話は本当なのか?」

 大柄の男子生徒の視線の先にはアーシェがいる。

「何のことだよ」

「軍から派遣された教官が、アーシェに告白したって噂を聞いたんだが」 

 ゼルは鼻で笑い、肩をすくめた。

「なんだ、お前、知らねぇのか?」

「今日まで休んでたんだ。知らなくて当然だろう」

「何だよ、サボりか?」

「違う。消費期限切れの牛乳飲んだのが原因だろう。匂いを嗅いだ限りは問題なさそうだったんだがな。腹壊して昨日まで寝込んでたいた」

「馬鹿か、お前」

「うるさいよ。それより、どんな奴だったんだ?」

 ゼルは少し考え、面倒くさそうに言った。

「さあな。ただ一つ確かなのは、まともな奴じゃねえってことだ」

「……は?」

「いきなり告白して、アーシェを気絶させただけじゃなく、それからずっと執拗に追い回してるらしいぜ」

 その言葉に、ウォードは顔をしかめた。

「大丈夫なのか、そいつは。いろいろな意味でだ」

 すると、横から悪戯っぽい笑みを浮かべた少女が割り込んできた。

「それだけじゃないよ」

 オレンジのような目の覚めるような鮮やかな明るい色の髪を揺らしながら、女子生徒が会話に加わる。

 ウォードが振り返ると、彼女は楽しそうに口元を吊り上げた。背の高いウォードと並ぶと、大人と子供ほどの差がある。

「それだけじゃないってのは、どういうことなんだ。セルフィ」

 セルフィはイタズラっぽく微笑むだけで、じっと二人を見上げる。ゼルは苛立った様子でそっぽを向き、ウォードは気になって仕方がないといった表情で口を開く。

「なんだよ、セルフィ。焦らさずに教えてくれ」

セルフィはくすくすと愉快そうに笑いながら言った。

「実はね、その軍人さん。アーシェだけじゃなく、キスティス先生にも言い寄ったらしいよ」

 その言葉を聞いたウォードは、露骨に顔をしかめた。

「……なんて命知らずな奴だ」

「しかもさ、昨日いきなり『アンタの、そのツンとすました態度が背筋にゾクッときたんだ。冷たいその眼差しと、黄金みたいな髪……たまんねぇ。惚れた。俺の女になってくれ』って、他の先生たちがいる前で堂々と告白したらしいよ」

 セルフィが楽しそうに笑いながら言うと、ゼルは呆れを通り越して、同じ男として軽蔑したような表情を浮かべた。

「どう考えても普通じゃねぇな。頭がおかしいってレベルを超えてやがる」

 ゼルのボヤキが聞こえたのか、少し離れた場所で女子生徒たちと楽しげに話していた男子生徒が、興味深げに声をかけてきた。

「君ら、何の話をしているんだい?」

 すらりとした長身に、甘いマスクを持つ男子生徒の気障な声音を聞いた瞬間、ゼルは露骨に怪訝な顔を浮かべた。一本に束ねたブラウンの長髪を揺らしながら、優雅な足取りで近づいてくる。その姿を見た途端、ゼルは舌打ちをし、露骨に不快だと言わんばかりの表情を浮かべた。

「おいおい、クラスメイトに対してそんな顔を向けることないじゃないか」

「アーヴァイン、お前には関係ねぇ話だよ」

「つれないこと言うなよ、ゼル」

 アーヴァインは、まるで気心の知れた旧友にでも接するような気軽さで、ゼルの肩に手を回そうとした。だが、ゼルはその手を荒々しく払いのける。隠そうともしないあからさまな嫌悪からの拒絶だ。アーヴァインは肩をすくめながらも、おどけたような笑みを浮かべてみせた。

 ケンカ腰のゼルと、そんなゼルを茶化すような笑みを浮かべるアーヴァイン。二人のやり取りを見て、セルフィは苦笑しながら口を挟んだ。

「はいはい、ケンカはそこまで。軍から派遣された教官について話してたの」

「ふ~ん。お前たちもか。まあ、ほかの連中もその話題で盛り上がってるみたいだけどね」

 アーヴァインは薄く笑いながら言い、ふとアーシェに視線を向ける。クラスメイトたちの囁きが飛び交う中、彼女は微動だにせず、黙々と準備を続けていた。

「……だけど、当の本人はまったく関心がなさそうだね」

 アーヴァインが肩をすくめる。ゼルは気に食わなそうな顔をしてアーシェを睨んだ。

「ケッ、優等生が。自分のこと以外には全く興味がないってことかよ」

 ゼルが吐き捨てるように言うと、セルフィが軽く宥めるように言った。

「まあまあ、いいじゃない」

「よかねぇよ!」

 ゼルは拳を握りしめ、わざと聞こえるように声を荒げて叫ぶ。

「俺はな、あいつのああいう態度が大っ嫌いなんだ!」

 ゼルの苛立ちを吐き出すような怒鳴り声も、周囲の生徒たちの囁き声も、アーシェの耳には届いていた。

(……くだらない。)

 彼女にとって、クラスメイトたちの言葉も、視線も、すべてが取るに足らぬ雑音に過ぎなかった。そんな小鳥のような囀りのようなものを気にしている暇なんて彼女にはない。彼女の赤い瞳には、燃え盛る闘志だけが宿っている。他人の詮索や嫉妬がなんだというのか。そんなものに構っている余裕はない。

 アーシェ・バナルガンには夢がある。目標がある。

 シードとして、戦禍に苦しむ人々を救うヒーローになりたい。

 かつての自分のように、理不尽な暴力に苦しむ人々を救いたい。

 その想いの強さこそが、彼女とクラスメイトの間に深い溝を作っていた。彼女は戦争の被害者として、強い決意を抱いている。

 だが、クラスメイトたちは誰もアーシェの生い立ちも、その思いも知らない。アーシェがなぜ、それほどまでにシードを目指し、強さにこだわるのか誰も知らない。

 だからこそ、アーシェとクラスメイト達との間に軋轢を生む原因になっている。しかし、アーシェにはそんなクラスメイト達の存在なんて気にしている暇はない。

 そんなことよりも、アーシェにはすべきことが分かっている。

 自分が理想とする存在に近づくためには、ただ一つ。努力以外の道などない。

 それがどれほど彼女を孤立させようとも、どれほど孤独を深めようとも彼女は、その道を迷わず突き進む。

 だが、そんなアーシェの意気込みをあざ笑うかのように、訓練場のざわめきは一層大きくなった。まるで火に油を注いだかのように、ざわめきが広がっていく。

 何しろ、噂の中心人物の一人が、その場に姿を現したのだから。

「おー、ここが訓練場か。結構広いな」

呑気な声が、訓練場に響く。それは、生徒たちの野次馬根性を嫌でも煽り立てるものだった。

一斉に視線が、声の主へと向けられる。

話題の渦中にいるウェッジが、イリーナを伴って姿を現した途端、クラスメイトたちの関心はアーシェから彼へと移った。

しかし、それは決して好意的なものではない。

「……うわ、来た。変態ロリコン軍人が」

「あれがアーシェに告白した後も、しつこく追い回しているって噂の……」

「それだけじゃないぜ? キスティス先生を口説こうとしたらしいぜ」

「うわ、マジで? サイテー、女なら誰でもいいって思ってんじゃないの?」

 囁き声が飛び交う。その中には、明らかな嘲笑が混じっていた。

 軽蔑と侮蔑の視線が、ウェッジへと注がれる。

 だがウェッジは、それらすべてをまるで風の囁きほどにしか感じていないかの様子だ。むしろそれどころか、自分を取り巻く冷ややかな空気を勘違いしているらしく、ウェッジは、朗らかな笑みを浮かべてやたらと女子たちに向かって視線を送っている。

 それに対して、女子たちは小さく悲鳴を上げ、一斉に距離を取った。その表情は明らかに生理的な悪寒に襲われたかのようだ

「なあ、イリーナ。もしかして俺、なんか注目されてないか。もしかして、これがモテ期ってやつか」

「私、先輩のそこが凄いと本当に思います」

 イリーナは毛虫やムカデを見るような目を向けながら言う。

「まぁ、すでに先輩の名前と奇行の数々は、学園中に広まっていますからね」

 イリーナはため息混じりに言い、さりげなく数歩、距離を取る。

「おい、なんで離れるんだよ」

「お気になさらず」

 イリーナは冷たくはねのけるように答え、顔をそっぽに向けた。

 これ以上の会話を拒絶するかのような、まるで他人に接するかのような冷淡な態度だ。イリーナの態度の意味が理解できないウェッジは、困惑したように肩をすくめた。そんな二人の様子を、ウォードがじっと見つめ、小さくゼルに囁く。

「……あの男がそうなのか? 思ったよりも普通だな。なんというか、兵役についていた軍人って感じがしないな。なんていうか凄みのようなものを感じない。どこから見ても、普通の優男って感じだな」

「確かにね。シード候補生である私達に対人スキルを教えに来たって言うくらいなんだから、きっと歴戦の勇士なんだろうなって思ったんだけど」

 セルフィと同じことを考えて、ゼルは腕を組んでウェッジをじろりと一瞥した。

「確かにな。とてもじゃないが、戦場で功績を立てたって感じしないよな」

 セルフィが、くるりとゼルの方を向く。

「でも、少尉ってことなんだし、あぁ見えてもやっぱり強いんじゃないの」

その言葉に、アーヴァインが含み笑いを浮かべる。

「それはどうかな」

 セルフィが首をかしげる。

「なにも戦場に出て功績をあげるだけが、昇級する方法ってわけでもないんだぜ?」

「それってどういうことなの?」

 セルフィが興味深げに尋ねようとした、その時。

戦場の心得、教官の矜持

「随分と騒がしいですね」

 冷然と張り詰めた女性の声が、フィールドの空気を一変させた。

 凛とした威厳を帯びた声音が、弛緩していたDクラスの生徒たちの気を瞬時に引き締める。恐る恐る振り返った先には、Dクラスの担任であるキスティス・トゥリープが立っていた。彼女の氷刃のように鋭い青緑の瞳が、生徒たちを貫く。

「あなたたち、気が緩みすぎですよ」

 淡々とした口調。だが、その一言は、鋭利な刃のように突き刺さった。誰もが緊張から息を呑んだ。波打つように広がっていた広場のざわめきは、凍りついたように一瞬で掻き消えた。

「ここがどこか、忘れていませんか?」

 キスティスの視線が、一人ひとりの生徒を射抜いていく。その瞳の冷たさに、生徒たちは背筋を凍らせた。萎縮したように肩をすくめた生徒たちは、次の瞬間、まるで見えない鎖に引かれるように姿勢を正した。その場の空気が一変する。怠惰と油断に染まりかけていた心に、彼女の声音が冷や水を浴びせたかのようだった。

「あなたたちが今まさに立っているこのフィールドは、魔素濃度の数値が一定以上に達するとモンスターが出現する場所です」

 冷ややかな言葉が、さらに生徒たちの心を締めつける。誰もがキスティスの言葉を重く受け止め、張り詰めた沈黙が場を包む。

「確かに、この訓練場に現れるのは基礎訓練用の低レベルのモンスターのみ。そして、あなたたちはすでに一年間、ここで訓練を積んできました。今や、このフィールドに出現するモンスターを容易く倒せるほどの力をつけているということは、私も認めています」

 彼女の言葉は静かだ。しかし、その声には明らかな力が宿り、場を張り詰めさせる。逆らうことを許さぬその威圧感の前に、生徒たちはただ黙って聞くことしかできなかった。

「だからと言って、油断をしても良いという理由にはなりません」

 その一言が、まるで刃のように鋭く突き刺さる。否応なしに、場の空気がさらに張り詰めていった。

「戦場で最も人を殺すのは、油断です」

 キスティスは一呼吸置くと、静かに、だが確実に生徒たちに刻み込むように言葉を紡いだ。

「どれだけ熟練したベテランであろうと、慢心した瞬間に命を落とします」

 キスティスの気配が変わる。一瞬、空気が張り詰め、冷たく鋭い殺気が生徒たちを包み込んだ。

 生徒と教師の間には、レベル差という熱く高い壁がある。圧倒的実力者が放つそれを受けた瞬間、生徒たちは死を実際に体感した。キスティスの放つ殺気と言葉には、”死”そのものの冷たい闇を孕み、深淵の手のように生徒たちの心を絡め取る。

 冷厳な口調で放たれたその言葉は、”死”を遠いものではなく、今この場に確かに存在するものとして生徒たちに突きつけた。重く、鈍く、鉛のようにのしかかる緊張が、静かに彼らを押し潰していった

「肝に銘じなさい。敵の強さに関係なく、レベルの差が勝敗の決定打になるとは限らないのです」

 静寂が満ちる。張り詰めた空気の中で、セルフィは息を飲み、ウォードはその大柄な体格に似合わず縮こまっていた。アーヴァインの表情からも、軽薄な笑みが消えている。

 キスティスの言葉は、生徒達の心を深く揺さぶり、誰もが”死”という現実を突きつけられていた。場の空気は凍りつき、生徒たちの頭上には重苦しい圧力が垂れ込める。

 だが、その場で、ただ二人だけが異なる空気をまとっていた。

 アーシェとゼルの二人だ。

 Dクラスの生徒たちが”死”を突きつけられ、恐怖に支配される中、ただ一人――アーシェだけは違っていた。彼女にとって”死”に直面することは、これが初めてではない。

 今から五年前、突如降り注いだ戦火の中で、故郷も両親もすべてを奪われた。その時、目の前に迫ってきた”本物の死”に比べれば、キスティスが脅しとして生徒達に放つ殺意や殺気など、ただの幻影にすぎない。

 そんなアーシェの姿を見て、ただ一人、ゼルだけが気に入らなそうに視線を向けていた。キスティスの話を真剣に聞きながらも、ゼルの意識の一部はアーシェへと向かう。

(なぜ、こいつはこんな場面でも平然としていられるんだ?)

 その瞳に浮かぶ悠然とした気配。それは、どこか周囲のクラスメイトたちを見下しているようにも感じられた。

 ゼルは、無意識のうちに奥歯を噛みしめる。アーシェのその余裕が無性に癇に障った。彼は、睨むような眼差しでアーシェを見つめ続けた。

 キスティスの冷厳とした雰囲気に凍りついたような静寂が広がる中、突如として異物が空間を切り裂いた。彼女の背後に続く、木々が作り出す影の中で何かが素早く蠢く。

モンスター襲撃と、キスティスの圧倒的強さ

「先生、危ない!」

 最初に異変を察知し、素早く視線を向けたセルフィが、鋭く声を張り上げる。

 左右から挟み込むように駆け出す二体。そして、頭上から真っ直ぐに跳び降りる一体、合計三体のゴブリンが、刃を構えてキスティスへと襲いかかる。狙いは、完全に背後を取ったキスティスだった。

 その姿を視界に捉え、アーシェとゼルが咄嗟に動こうとする。しかし、それよりも速く、キスティスが動いた。彼女は腰のレザーホルダーから一本の鞭を抜き取ると、振り返ることもなく、そのまま流れるように腕を振る。

 次の瞬間、圧倒的な力の解放とともに、空間が震える。重く、鋭く、極限まで研ぎ澄まされた動きが、大気を裂いて通り過ぎた。その一閃に、ゴブリンたちは反応すら許されなかった。三体の身体が同時に切り裂かれ、断末魔すら上げる間もなく、霧のように黒い塵となって消えていく。

 全てが、ほんの一瞬の出来事だった。

 誰一人として、キスティスの動作の全容を目で捉えることはできなかった。ただ、空間に残されたのは、斬り裂かれた余韻と、生徒たちの背を伝う冷たい汗だけだった。その静寂が、先ほどまでの一瞬の異常さを、何よりも雄弁に物語っている。

 アーシェとゼルは、思わず息を呑んだ。二人とも、Dクラスの中では戦闘能力において頭一つ抜けた実力者だ。だがそれでも、今のキスティスの攻撃は、その軌道すら目で追うことができなかった。眼で捉えることができなかった、という事実が胸に重くのしかかる。

 実力の差は明白だった。キスティスと自分たちとの間には、圧倒的なレベル差が存在する。その現実を、アーシェとゼルの二人は痛感していた。

「……いいですか」

 何事もなかったかのように、キスティスは鞭を手際よく巻き、ホルダーへと収めた。

「このフィールドでは、いつモンスターが現れるか分かりません。決して油断してはいけません」

 キスティスの凛と冷え込んだ声が響く。重苦しい沈黙が場を包む中、生徒たちは言葉もなく息を飲み込む。誰もが先ほど一瞬で倒されたゴブリンの光景を思い出していた。

 その出現はまさに突然だった。ほんの一瞬前まで、周囲には気配すらなかった。なのに、それは突如として現れ、襲いかかってきた。

「この中で、ゴブリンの出現を察知していた者はいますか?」

 キスティスの問いかけに、誰一人として手を挙げる者はいない。

「もし察知できていなければ、先ほどのバックアタックを受けて、最悪の結末を招いていたでしょう」

 モンスターはどこから現れるのか、その謎は今なお解明されていない。ただひとつ分かっているのは、モンスターたちはこの世界とは異なる、異空間から干渉してくる存在だということだけだ。

「たとえレベルが低く、能力が弱く、倒し方が確立された“雑魚”と分類されるモンスターであっても、環境と条件次第では、いかなる者であろうと命を奪います」

 魔素濃度が一定数値を超えたフィールドには、空間に歪みが生じ、その隙間から奴らが現れる。ひとまずは、そう考えられている。現時点では仮説にすぎない。だが、この説を軽んじることは誰にもできない。

「今、あなたたちの目の前で起きたことを、決して忘れないでください。油断と慢心は、どれほどの手練れであっても死を招きます」

 塵となり消えたモンスターの死骸は、何ひとつ痕跡を残さなかった。だが、その光景は、生徒たちの心に強烈な警告として刻み込まれていた。

「おお……」

 緊張で張り詰めた空気の中、誰かの気の抜けた感嘆の声が漏れた。クラスメイトたちが一斉に振り向くと、そこには腕を組んでうなずくウェッジの姿があった。

「へぇ、やるもんだな」

 ウェッジの間の抜けた声に、張り詰めていたDクラスの空気があっけなく切れた。生徒たちの表情も、どこか緩み笑みが浮かんでいる。それまで漂っていた緊張感が、まるで冗談の一言で台無しにされたような空気が流れた。

 キスティスはわずかに眉をひそめ、こめかみをぴくりと引きつらせた。

「キスティス先生の家は代々軍人家系ですからね。彼女自身、戦後に創設されたシード科の第一期生です。これくらい、当然ですよ」

 イリーナは横目でウェッジを睨み、小声でそう言い放つ。その目は、余計なことは言わずに黙って見ていろと言わんばかりだった。ウェッジは肩をすくめ、あからさまにしぶしぶといった様子で口を閉じる。その横顔には、うんざりといった様子の不満がありありと出ている。

 イリーナはそんなウェッジの様子に、疲れたような表情で額に手を当て、静かにため息をつく。

最弱モンスターに襲われる軍から派遣された教官

 その時、イリーナはウェッジの足元、正確には彼の影の中に何かが蠢いているのに気づいた。まるで土中から何かが這い出てくるかのように、影の中でそれは動いている。イリーナは即座にそれがスライムであることを察知した。

「先輩、足元に……」

「あ? 足元がどうかし――」

 イリーナの声に反応し、ウェッジが足元に目を向けた瞬間、それは彼の顔面に向かって飛びついた。

「スライムがいますよ……って、もう遅いですね」

 イリーナが言い終える前に、ウェッジの顔全体がスライムの粘液状の体に覆われてしまった。

「んぐっ!? がばごぼぼぼぼっ!?」※注訳(な、なんだこれは!?)

 透明なゼリー状の液体に顔全体を覆われ、ウェッジはまるで水中で溺れた人のように慌てふためいた。 もがけばもがくほど、ぬるぬると絡みつく感触。

 ウェッジは、顔全体を覆うスライムを必死に引き剥がそうともがいた。だが、その粘液質の体はまるで水を掴もうとしているかのように、指先から滑り落ちてしまう。力任せに引きちぎろうとしても、ゼリー状の粘膜はぬめりながら手にまとわりつき、決して掴むことができない。

 指先に力を込めれば込めるほど、スライムは形を変えて、力を吸収し、受け流していく。どれほど激しく抗おうとも、その粘体は執拗に顔へと絡みつき、ウェッジの呼吸を確実に阻んでいる。

 そんなウェッジの姿を、イリーナは呆れた様子で見つめていた。​

「ごばごぼ、ぼぼごぼ!」(おい、どうなってんだ、これ)

「何やっているんですか、先輩。不定形生物のスライムを素手で掴めるわけないじゃないですか」

「ぼぼ、ぼばばごぼ!」(見てないで、どうにかしろ)

「先輩なら自力でどうにかできるじゃないですか」

 イリーナは冷静に応じるが、助ける素振りは見せない。​ウェッジは彼女を非難するような目で見つめつつ、なおもスライムを引き剥がそうと悪戦苦闘する。​

「あれ、何してるんだろう」

「……何かのパフォーマンス?」

 ウェッジとイリーナの妙なやり取りが耳に入ったのか、数人の生徒が不思議そうに後ろを振り返った。

 やがてその視線が次々と連鎖し、クラス全体の注目が、スライムに悪戦苦闘するウェッジに集まっていた。。生徒たちは、最初こそ呆然としてその様子を見守っていた。

 だが、誰かの口元が緩み、小さな笑い声が漏れる。それは静かな湖に投げ込まれた石のように、波紋のように広がっていき――気づけばDクラスの生徒たち全員が笑い声をあげていた。

「す、すげぇ……スライムごときにやられそうになってるやつ、初めて見たぜ……!」

「ありえない。スライムだぞ? 倒し方さえ知ってりゃ、初等部のガキでも余裕で倒せる最弱モンスターなはずだぞ!」

 ゼルとは腹を抱えて笑い転げ、目には涙さえ滲ませていた。ウォードは仏頂面を保っているが、表情筋が小刻みに震えているのが見て取れる。

「いや、笑ってる場合じゃないよ。早く助けないと」

 セルフィは笑いをこらえながらも、ウェッジを心配して言う。しかし、彼女の表情には半分ほど笑みが浮かんでいる。

 実際、ウェッジの状況は深刻だ。スライムに顔を覆われ、呼吸ができない上に、その粘液は消化液でもあり、放っておけば皮膚を溶かされてしまう危険がある。

「まぁ、大丈夫だろう。魔物化したスライムとはいえ、スライム程度の攻撃では大したダメージはないよ。たとえ、相手がレベルの低い奴でもな」

 アーヴァインはニヤニヤと楽しそうに言う。まるで喜劇のピエロを見ているかのような笑みを浮かべ、完全にウェッジを馬鹿にしている様子だった。

 ウェッジはスライムを引き剥がすのを諦め、倒すことを考えたようだ。自らの顔面に拳を打ち付けるつもりで拳を振り上げる。しかし、スライムの粘液質の体はその拳を包み込み、力も衝撃も全て吸収してしまった。ウェッジは何度もそれを繰り返すが、全く効果がない。その様子を見て、生徒たちはさらに笑い声をあげた。

「おい、あいつ、バカだぞ。スライムは物理耐性の高さを知らないのか?」

 ゼルは口元に冷えた笑みを浮かべ、半ば呆れたような、半ば侮蔑するような声で言う。周囲の生徒達も笑い疲れたのか、ゼルと同じような表情を浮かべていた。

「そんなこと、誰だって知っていることだぞ」

 ウォードも笑いを超えてむしろウェッジの無知さ加減に呆れと哀れさを感じているような表情を浮かべる。

「ちょっと、そんな悠長なことを言っている状況じゃないでしょ! 長いことあの人あの状況のままだよ。さすがにまずいよ」

 セルフィは笑みを消し、真剣な声音で言った。その一言が、場に残っていた最後の笑い声すらもかき消す。緩んでいた空気が一瞬にして凍りつき、教室に張り詰めた緊張が満ちていく。

 生徒たちの表情が変わる。先ほどまでの軽薄な笑い声はどこへやら、誰もが口を噤み、ウェッジに覆いかぶさるスライムを注視する。その滑らかな粘体が、彼の顔面を完全に覆い、呼吸を奪い続けていることにようやく、皆が気づき始めた。

「確かに、スライムの攻撃は問題なくても、呼吸できないってのはまずいな」

 アーヴァインはそう言いながら、助けに動く様子も見せず、まるで自分には関係ないとでも言いたげに、肩をすくめて軽く笑った。

「おいおい、もう何分経った? このままじゃ、あいつ窒息しちまうぞ」

 ゼルは助け出そうと駆け出そうとする。

 そんな生徒達の動揺を見て、イリーナは仕方がないとため息をつきつつ、ウェッジを助けようと一歩踏み出そうとした、その時だった。

「ファイアボール!」

 次の瞬間、突如として火球がゼルの脇を掠めるように通り過ぎた。轟音とともに放たれたそれは、一直線にウェッジの顔面へと飛来し直撃する。顔全体を包むように、激しい炎が一瞬で燃え広がった。突如眼前に広がった紅蓮の光景に、ウェッジは驚き、慌てて手を振り回す。

 だが、熱さはない。肌が焼ける感覚も、火傷の痛みもまるで感じない。気づけば、顔を覆っていたスライムが焼かれ、黒い塵となって霧散していた。炎はスライムだけを正確に焼き尽くし、ウェッジの顔には一切の傷を残さなかった。

 火球による炎の余韻がまだ空間に残る中、誰もがその放たれた方向へと顔を向けた。

 視線の先、アーシェが静かに腕を下ろすことなく佇んでいた。炎の揺らぎを映したような赤い瞳が、じっとウェッジを見据えている。その眼差しは怒りに燃え、鋭い刃のごとき冷たさを孕んでいた。

 まるで断罪するかのような視線で、彼女は侮蔑と軽蔑の感情を隠そうともしなかった。

「アンタって本当に最低」

 アーシェは静かに腕を下ろしながら、感情を押し殺したような声でそう言い捨てた。そして、何の未練もないかのようにウェッジから視線を外す。

「私はアンタみたいな奴が大っ嫌い」

 その言葉が落ちた瞬間、場に沈黙が降りた。まるで時間が止まったかのように、誰も何も言葉を発せず、ただ黙っていた。

 笑い声は消え、先ほどまでのざわめきもなくなり、空気が静かに淀む。誰もがその場で固まり、動くことすらためらっているようだった。

 ウェッジも言葉を失い、どう反応すればいいのか分からず、戸惑った様子を見せている。なにやら腕を組んで考え込んでいる。

 沈黙を破るように、イリーナが口を開いた。

「私たちがいても、授業の邪魔をするだけなようですので……見学はここまでにして、職員室に戻ることにします」

「そ、そうですね。それがいいかもしれませんね」

 イリーナはキスティスに軽く頭を下げると、アーシェからウェッジへと視線を移す。

「ほら、先輩、行きますよ。いつまで間の抜けた顔をして突っ立ってるんですか」

 イリーナはウェッジの服の裾を引き、彼を引きずるようにして歩き出した。ウェッジは足を引きずられるまま、無言でついていく。キスティスは顔を引きつらせながらも、無表情を保っている。Dクラスの生徒たちも誰一人言葉を発せず、静かに見送っていた。訓練場のフィールド内には、熱の引いた茶番のような空気がな空気が漂っている。

「ちょっと、ちゃんと歩いてくださいよ」

 イリーナが抗議の声を上げると、ようやくウェッジが口を開いた。

「ふむ、嫌いってことは好きってことだよな。ツンデレ的には」

 その言葉に、イリーナはひどい鈍痛に襲われたように頭を押さえた。

「先輩、それは違います。おそらく、アーシェさんの言葉は文字通りの意味でしょう」

「いやいや、お前はツンデレってもんをわかってないな」

「そうですね。少なくとも、私には先輩の頭の中がどうなっているのか理解できませんし、理解したくもないです」

 イリーナとウェッジがそんなやり取りを交わしながら訓練場を後にすると、残された生徒たちとキスティスは、呆れたような沈黙に包まれた。誰もがウェッジの言葉に反応する気力を失い、ただ静かに二人の背中を見送るしかなかった。

あとがき

前回からまた大分間隔が……。

いちおう話の道筋は考えてあるのですが……。

書いては、消して、書き直して、それをまた消して、書き直して……それを繰り返していたら、これだけ時間が過ぎてしまっていました。

できることなら、次の話は今月中に書き終えるのを目標としたいです。

ちなみに、一枚目の画像はウォードとゼル。二枚目はアーヴァインとセルフィのイメージ画像となっています。

この四人のキャラのネタ元は、名前のまんまでFF8のウォード、ゼル、アーヴァイン、セルフィの四人からとなっています。

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