前話は下記のページからになります。
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前回のあらすじ

Dクラスのモンスター演習に立ち会ったウェッジとイリーナ。
訓練場ではモンスターの不意打ちにキスティス教官が圧倒的な力を見せつける一方、ウェッジは最弱モンスター・スライムに顔面を覆われ大騒ぎ。
結局、アーシェに呆れられ、「アンタみたいな奴が大っ嫌い」と言い捨てられてしまう。
終わらない戦争とガストラ帝国による戦乱の歴史

いまより遡ること千年以上前のこと。
長く続いた戦乱の世に人々が疲れ、ようやく訪れた束の間の平和な時代の中、一人の冒険者が世界の果てに到達し、その先に新たなる地平が広がっていることを発見した。
この発見により、世界は内界と外界の二つに分け隔たれることとなる。外界に眠る未知の資源と豊穣な大地は、まさしく新時代の約束であった。
しかしその夢は、やがて血にまみれることになる。
列強各国は、誰よりも早く富を得んと競い合い、外界への開拓団を次々と送り出した。そして、交わることのなかった旗が衝突し、再び戦乱の世が始まった。
外界の地権をめぐる小競り合いは、瞬く間に内界全土を巻き込む大戦へと姿を変え、千年にわたる終末の時代が幕と開く。後に『終わらない戦争』と呼ばれる戦乱が始まったのである。
戦火は世代を超えて続き、国家を飲み込み、文明そのものを揺るがした。誰もが、この戦争は人類が滅びるか、世界そのものが崩壊するまで終わらないと考え、深い絶望に沈んだ。
だが、永きにわたる戦争の最中にも、奇妙な均衡が保たれた時代があった。
技術と軍略、信仰と政治が複雑に絡み合い、列強は互いを睨み合いながらも、決定的な衝突を避け、拮抗を続けていたのである。平穏とは言い難く、安堵には程遠い状況ではあったが、それでも各国の力関係は一定の均衡を保ち、争いの火は一時的に静まっていた。
しかし、その脆い均衡を破壊したのが、ガストラ帝国皇帝ゲシュタール・ガストラ。戦後、彼は「狂帝」と呼ばれ、ガストラ帝国史に血で汚れた深い傷痕と、消えることのない汚名を刻みつけた大罪人だ。
内界の人々が平和を願い、希望の象徴とした宗教国家ニサン。聖母の慈愛のもと中立を保ち、あらゆる国から不可侵の聖域とされていたその地に、ガストラ帝国は突如として侵攻を開始した。
1914年。この暴挙に呼応するように、内界四大国が覇権を巡って一斉に軍を動かし、内界は再び紅蓮の戦火に包まれた。
終末の気配が世界を覆い尽くし、人々は世界の滅亡がもはや避けられぬと悟った。
激しい戦禍の中、多くの国が滅び、無数の命が奪われた。
そして、1945年。廃墟と化した宗教国家ニサンの中心、大聖堂「聖ソフィア」の崩れ落ちた尖塔の下にて、かつて敵として刃を交えた各国の首脳たちが一堂に会し、宗教国家ニサンの大聖母アグネス・デートメルスの見守る中、終戦協定書に署名した。
誰もが「終わらぬ」と信じていた戦争が、千年の果てに、ついに終焉を迎えたのである。
「確かに、現在も一部地域では小規模な武力衝突が散発的に続いています。しかしながら、いわゆる“戦争状態”というのは、国家が公式に宣戦を布告し、組織的かつ持続的な戦闘行為に突入した状態を指します。そういった意味では、現在の内界には、もはやその定義に該当する戦争は存在しておらず、形式的には平和と呼べる時代に入っているのは確かです」
戦争史の講義の中、老講師はちらちらと教壇前に座る生徒たちの様子を窺いながら話を続けていた。この老講師、スティーブン・ビンカーは、内界屈指の歴史学者である。その冷徹な考察と膨大な記録調査により、戦争史の権威と称されてきた。
だが、その抑揚のない平坦な声音に、生徒たちは次第に退屈を覚え、やがて眠気に抗えず、何人かはすでに意識を手放していた。ビンカーは、好々爺然とした穏やかな顔つきの裏で、教室内を隅々まで厳しく見渡している。彼の講義に甘えは通用しない。
左端から順に、生徒たちの顔をなぞるように視線を滑らせていく。居眠りしている者を見つければ、微かに眉をひそめながら、その数を心の中で数える。
戦争の英雄、完全になめられる

「ぐぅ〜〜〜……がぁ〜〜〜」
聞き逃しようのないイビキが、教室にこだまする。
視線はそこで止まり、ビンカーは一瞬、どう対処するべきか逡巡した末、手にした教本に目を落とした。
「いまだに各地には戦災の爪痕が深く刻まれたままであり、近隣諸国との関係も、なお十分な修復には至っておりません。中でも、我がガストラ帝国は歴史的に重大な責任を問われる立場にあります」
ビンカーは再び顔を上げ、今度は右端から左へと視線を移動させる。
「1914年、宗教国家ニサンへの侵攻を断行し、当時の大聖母を殺害したとされる“狂帝”ゲシュタール・ガストラは、国際的にも戦争犯罪人として非難を受け、その行為は今日に至るまで多くの人々の怒りと憎悪の対象となっています。その影は、今なお我が帝国に重くのしかかっているのです」
「グゴォ~~……ぐがぁ~~」
再び響く豪快なイビキに、ビンカーの目は再度ぴたりと止まった。
ほとほと困り果てた老講師は、思わずため息をつくと、静かに名を呼んだ。
「……ウェッジ少尉」
階段状に設けられた講義室の最上段、まるで特等席のような位置で、堂々と居眠りを続けるウェッジに向かって、ビンカーは呼びかける。
「少尉、ウェッジ少尉!」
「ぐぅ~……ぐぅ~……」
ウェッジは一向に目を覚まさない。机に突っ伏したまま、悠々と眠り続けている。その様子に、周囲の生徒たちも次第に気づきはじめた。教室のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れ、やがてざわめきが広がっていく。
ビンカーは困り顔のまま、助けを求めるように視線を隣席へと向けた。そこには、冷ややかな目つきでウェッジを睨んでいたイリーナの姿があった。
イリーナはビンカーの視線に気づくと、無言で一度うなずき、即座にウェッジの脇腹へ肘を思いきりねじり込んだ
「ぐおっ」
鈍くも鋭いうめき声が教室に響く。ウェッジは痛みに悶えながら身を起こし、立ち上がるなりイリーナを見下ろして怒鳴った
「いきなり何しやがんだ、このクソアマ」
「いい歳した大人が、講義中に堂々と居眠りしているからですよ。それより、先輩。呼ばれてます」
「あぁ!? 呼ばれてるって、一体どいつが」
ウェッジが顔を横に向け、視線を少し下げると教壇に立つビンカーと目が合った。ビンカーは小さく咳払いを一つし、あえてウェッジの居眠りに触れず、何事もなかったように話しかけた。
「ウェッジ少尉。あなたは数多の戦場を渡り歩き、数えきれぬ功績を残した優秀な兵士だと聞いています」
教壇の上から穏やかに語りかけながら、ビンカーは静かに一段降りる。
その動きには、単なる距離の縮小ではない、目の前の男に対する敬意が滲んでいた。わずかに顔を伏せ、まるで自らの無力を恥じるかのように、ビンカーは一瞬だけ俯く。しかし、すぐに表情を整え、正面からウェッジを見上げると、重みのある言葉を続けた。
「私には、戦場の現実をこの身で知る機会がありませんでした。故に、シードとして命を危険にさらすような任務に就くかもしれない彼らに、本当に意味のある言葉を授けることは叶わないのです。あなたの経験を、どうか彼らに分け与えてはもらえないでしょうか。なにより、あなたの語る言葉なら、誰一人として居眠りなどしないでしょうな」
ウェッジは立ったまま腕を組み、首をかしげた。誰に向けるでもない独り言のように、ぼそりと漏らす。
「経験談って言ったってなぁ、何を話せばいいんだ?」
その声は思った以上に大きく、教室内に響いた。ビンカーの耳にも、はっきりと聞こえた。ビンカーは困ったように苦笑し、肩をすくめた。
「そんなに難しく考えないでください。心に残ったことでも、現場で感じたほんの些細な教訓でもいいのです」
それでもウェッジは首をかしげたまま、要領を得ない顔をしていた。
「戦場での心構えっていったってなぁ……」
その呟きが引き金となり、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れ始めた。
くすくす、くすくす、と漏れ聞こえる笑い声は波紋のように広がっていく。隠す気のないあからさまな嘲笑に、ビンカーは不快そうに渋い顔をしかめる。
そこにあったのは、若者特有の無邪気さではない。侮蔑と嘲り。純然たる悪意が滲んでいた。
ビンカーは眉根をきりりと吊り上げ、厳しい声音で教室を叱責した。
「静粛に。今、ここに立つ者は、あなた方が持ち得ぬ経験を背負っている。何がおかしいのか、私には理解できない。己が無知を恥じず、他者を嘲るような態度は、いかなる場所においても赦されるべきではありません」
教室に広がっていた笑いは、ピタリと止まった。だが、生徒たちの顔にはまだ、嘲りの色が残っていた。
ビンカーは冷ややかな目で彼らを見渡した。鋭い視線を放つも、効果はまるでなく、生徒たちは上辺だけの沈黙を装っていた。ビンカーは、生徒たちの中に漂うウェッジへの侮蔑の空気を肌で感じ取りながらも、その理由が理解できず、不可解な思いでウェッジを見上げた。
「少尉、さあ、話をお聞かせ願います」
ビンカーの真摯な視線を受け、ウェッジはわずかに眉をひそめると、思案するように教室をぐるりと見渡した。周囲から向けられる視線は、誰のものも冷たく、あからさまに見下しているのがありありと伝わってくる。
だが、ウェッジはそんな視線など一向に気に留める様子もない。ウェッジのすぐ前の席に座る、金髪を短く刈り上げた男子生徒が、肩越しにこちらを振り返っていた。
露骨な挑発の色をその瞳に宿し、ウェッジを睨みつけているのはゼルだった。口元に含みのある薄ら笑みを浮かべ、その目にはウェッジを見下していることがありありと表れている。だが、ウェッジはそんな視線をただ一瞥するだけで、無関心に受け流した。
無視されたことに苛立ったゼルはなおも睨みつけるが、ウェッジの視界からはすでに消えていた。
ゼルなど眼中にないと言わんばかりに、ウェッジは視線を教室内へと移し、目当ての人物を探す。すぐに見つかった。目を引く鮮やかな赤い髪の後頭部が視界に入る。
アーシェは教室最前列の左端、窓際の席に座り、ただ黙って前方を見つめていた。教室に漂う嘲笑の空気に、アーシェはどこか辟易しているようだった。自分より格下の相手を見下してバカにする、そんな幼稚な騒ぎには加わるつもりもないとでも言うように、彼女は窓の外へとそっぽを向いていた。
「ウェッジ少尉、どうかなさいましたかな?」
ビンカーの言葉に、アーシェの赤い髪を目で追っていたウェッジは、我に返るように肩をすくめた。
「ん? いや、別になんでもない」
「そうですか。それでは、どうぞ」
「どうぞって……何をだ?」
ビンカーは困り果てたように、眼鏡の位置を整えながら言葉を継ぐ。
「いえ、ですから。少尉の、戦場での経験談を、生徒たちに聞かせていただければと」
「あぁ、はいはい。戦場での話か。……戦場の話って何を話せばいいんだよ」
ウェッジが言葉を探すように眉を寄せた、その瞬間だった。
隣に座るイリーナが、そっと彼の服の裾を引く。
視線を向けると、彼女は微動だにせず前を向いたまま、唇だけを動かした。
「先輩、軍部からの指示は忘れていませんよね。あなたの存在そのものが機密なんですよ。話せることなんて何一つありません」
その声音には冷徹な警告がこもっていた。
ウェッジは学園に赴任する際に忠告された様々な面倒な事柄を思い返して、うんざりとした様子で頭をかきながら、ぶっきらぼうに言う。
「あぁ、悪いんだが、軍事機密で話せない」
そっけなく短く告げると、そのまま席へ腰を下ろした。
一瞬の静寂が室内に広がる。誰もが呆気にとられたような表情を浮かべていた。そして次の瞬間、教室中に爆笑が湧き起こった。
「軍事機密か、そりゃ便利な言い訳だな!」
「どうせ戦場でロクな活躍してねぇんだろ!」
「スライムにやられる人がさ、シード候補生に何を教えんの?」
「そうそう、私たちそんなヘタレに教わるほど落ちぶれてないし」
「先生、今度の実技で教えてくれるんですよね? “命乞いの作法”とか」
「それとも、戦場で敵に気づかれずに後方待機する秘訣とか?」
「ようするに、出世するためのゴマすり講座ってやつ?」
嘲笑と侮辱が渦巻く中、講師であるビンカーが立ち上がり、場を鎮めようと声を張り上げた。
「皆さん、静粛に。静粛に!」
だが、すでに生徒たちの悪意は制御不能なほど拡散しており、ビンカーの声は焼け石に水だった。
どうすることもできず、彼は戸惑いと困惑を隠せない。
そんな中、ウェッジは、両手を頭の後ろで組んだまま、教室中の罵声と笑い声を涼しい顔で聞き流していた。まるで、他人事のようにただ、その場の騒ぎを眺めているかのようだ。
一方で、アーシェはその騒音に眉をひそめ、両耳を押さえている。騒がしい教室にうんざりしたような表情を浮かべたまま、ふと違和感を覚えた。
そっとアーシェは後ろを振り返った。視線の先にいたのは、ウェッジの隣に座るイリーナ――帝国の軍服を身にまとった、一人の女性士官だった。
アーシェはその名を、校内での噂話から聞き覚えていた。
白い肌に金色の髪、整った顔立ち。ウェッジと同じく、軍から派遣されてきた指導官の一人だという。だが、今のイリーナは、ただの軍人には到底見えなかった。その瞳は氷のように冷え、鋭利な刃物のように鋭さを増していく。
彼女の周囲から、まるで空気の色が変わったかのような異様な気配が立ちのぼっていた。教室の温度が一段低くなったかのように空気が冷え、肌が粟立つ。声だけでなく、息すらも押しとどめるような圧迫感が、美しいその体躯から静かに放たれていた。
この割れんばかりの嘲笑の中、無表情のまま沈黙を保つ彼女が今まさに、限界を迎えようとしている。それに気づいていたのは、アーシェだけだった。
教室が嘲笑と侮辱の熱で満ちていく中、ゼルは得意げに肩越しに振り返り、ウェッジを見下すような視線を投げた。場の空気に乗じて、口元には下品な笑みが浮かんでいる。その目は、まるで獲物を安く値踏みするような冷たさを宿していた。
「何が軍事機密だよ。スライムにやられてた奴が、偉そうに言ってんじゃねぇよ」
「ちょっと、ゼル。やめなよ」
隣に座るセルフィが、口ではたしなめるように言ったが、その唇の端には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
「どうせ、一度も戦場に出たことなんてないんだろ?」
ウェッジはゼルの言葉にまったく反応を示さなかった。空虚な瞳でゼルを一瞥し、それきり、まるで足元に這いずる虫でも見たかのような無関心な目を戻した。
その態度に、ゼルの口元がぴくりと歪む。声のトーンがわずかに上がった。
「なあ、お前みたいな兵士が、何て呼ばれてるか知ってるか?」
吐き捨てるように言いながら、ゼルは下段の席から身を乗り出すようにしてウェッジを見上げた。その目は、明らかに相手を格下と見定めた者のもの。勝ち誇ったような笑みが口元に貼りついていた。
「ゼル、いい加減にして。いくらなんでも調子に乗りすぎだよ!」
セルフィは思わず声を張り上げ、ゼルを制するように身を乗り出した。その視線は向かい側に座るウォードにも向けられた。
「ウォード、黙ってないで止めてよ。アーヴァインも何とかして」
向かい側では、ウォードが無言のまま腕を組み、眉間に深く皺を寄せていた。一方、セルフィの前に座るアーヴァインは口角を上げたまま、頬杖をついて気怠げに肩をすくめただけだ。
ゼルはまっすぐにウェッジの瞳を睨んだ。だが、その目に自分の姿が映っていないことに、彼は気づいた。ウェッジの瞳には、まるで相手が取るに足らない存在であるかのような冷ややかさが宿っていた。ただ静かに、淡々と。そこに壁でもあるかのように視線を流し、まったく相手にする素振りを見せない。
ゼルは小さく舌打ちをした。その音には、苛立ちと侮蔑が滲んでいた。
「“チェアボーン”って言うんだよ」
それは、特定の兵士たちに影で向けられる蔑称だ。戦場に出ることなく、内地で事務仕事しかしていなかった。常に椅子の上に座っていただけの兵士。つまり、実戦に投入されることはなく、戦後の褒賞だけで昇進した者たちを嘲る言葉である。その蔑称は他にあり、軍上層部にコネを持つ名家出身の士官候補生が、血と泥に触れることなく、勲章と肩書きだけを手にした者は、“リボンファイター”とも呼ばれた。
ゼルはウェッジを、軍部に居座る腰抜けそのものだと信じ込んでいるのだろう。得意げな表情を浮かべたまま、ゆっくりと周囲に視線を巡らせる。勝者が栄誉を誇示するかのように顎をわずかに上げ、生徒たちを見渡した。
その振る舞いに呼応するように、教室のあちこちからくすくすと嘲笑が漏れ始める。クラスメイトたちの薄暗い期待が、ゼルの背中をさらに押し上げた。
その瞬間だった。
教室を凍りつかせたイリーナの殺気

イリーナの周囲の空気が一変する。ひやりとした冷気が教室全体を覆い、まるで時間そのものが凍りついたかのような静寂が訪れた。
イリーナは一言も発さぬまま、ゼルを睨んだ。
次の瞬間、押し寄せるような殺気が教室を満たした。その気配は、まるで無数の銃弾が全身を貫くかのように鋭く、容赦なくゼルの意識を撃ち抜いていく。ゼルはその殺気に圧倒され、体が凍りついたように動けなくなった。呼吸は乱れ、額には冷や汗が滲む。
(な、何だこれ……何が起きた?)
恐怖に打ちのめされながらも、ゼルは気力を振り絞って、錆びついた歯車のようにぎこちなく首を動かした。まるで背後から迫る刃を直視するように、ゆっくりと振り返ったその先にいたのは、イリーナだった。
座ったまま、ただ真っすぐにゼルを見据えていた。
その眼差しは氷刃のように冷たく鋭く、無言のままゼルの心臓を射抜いた。視線がぶつかった瞬間、ゼルの全身に鋭い衝撃が走る。まるで氷塊に閉じ込められたように、体の自由がきかなくなった。
ゼルは激しく脈打つ胸を押さえた。呼吸は浅く、冷たい鉛のような圧迫感が胸の内に重く張り付いて離れない。背筋を伝う冷汗が体温を奪い、視界がゆらりと揺れる。意識が遠のいていく中、歯を食いしばり、必死に踏みとどまるのが精一杯だった。
この殺意が向けられているのは、ゼルだけではない。イリーナの放った無言の殺気は、余波となって教室全体を包み込み、生徒たちは一人残らず凍りついた。まるで時が止まったかのように、誰一人、声を出すことも身じろぎすることもできない。
ゼルの隣にいたセルフィは恐怖に顔を引きつらせたまま微動だにできず、ウォードも険しい表情で固まり、アーヴァインですら片眉をわずかに上げたまま、笑みを凍りつかせていた。
静寂と圧力だけが空間を支配している。その中で、アーシェは椅子の背にもたれるように身を固くしながら、目を見開いたまま息を呑んだ。
(な……なんなの、この気配は……こ、これが、本当に人間が出せるものなの!?)
ここにいる全員が、過酷な訓練を耐え抜き、選び抜かれたシード候補生だ。才能に恵まれた者だけが辿り着ける、精鋭中の精鋭。戦場を想定した過酷な訓練にも慣れきっているはずだった。
だが、この場では、誰一人として動けない。
イリーナが放つ、ただの「気配」にすら、抗うことができなかった。誰もが恐怖に声も出せず、身動きすら取れなくなっていた。
異様な空気が教室を支配するなか、ただ一人、ビンカーだけが訳もわからず右往左往と視線を彷徨わせている。彼は殺気を察知できていない。だが、それでも重苦しい空気に圧迫されていることは感じ取っていたようで、彼の表情はいつになくこわばっていた。
イリーナの眼差しは鋭さを増し、表情には凄みがにじむ。全身から湧き上がる激しい怒りとともに、放たれる殺気がさらに強まっていく。耐えきれなくなった数人の生徒が気を失いかけ、机にしがみつきながら床に倒れこんだ。
それでもイリーナの怒りは収まる気配を見せず、殺気はなおも増していく。その殺意はまるで、本当に生徒たちを殺すつもりで放っているようだ。
その時だ。
「このバカ!」
ウェッジが拳を振り上げ、無言のままイリーナの頭上へと落とす。
「ふぎゅっ!?」
なんとも力の抜ける、間の抜けた悲鳴がイリーナの口から漏れた。その瞬間、室内を支配していたイリーナの殺気がふっと消え去る。張りつめていた空気が一気に崩れ落ち、まるで金縛りが解けたかのように、Dクラスの生徒たちは次々と身体の力を取り戻していく。
誰もが、ぐったりと机にもたれかかるように崩れ落ち、額にはびっしょりと汗がにじみ、荒い息遣いが静かな教室にやけに大きく響いていた。
ゼルは恐る恐るといった様子で、ゆっくりと背後を振り返る。
ついさっきまで、絶対に目を合わせてはいけない、と思わせるほどの威圧感を放っていた人物とは思えない。拳を握ったまま立つウェッジの前で、頭を押さえ痛みに顔をしかめながら項垂れている姿は、大人に叱られた子供のようにしか見えなかった。
「ガキ相手に何を考えてんだ、お前は」
「……すいませんでした」
拳を振り下ろしたまま、ウェッジは呆れた様子でじっとイリーナを見下ろしている。イリーナは目を伏せ、しゅんと肩を落としていた。
ゼルは信じられないものを見るような目で、二人の様子を眺めていた。それはゼルだけではない。他の生徒たちも同じだった。驚いているのは確かだが、何に驚いているのか、自分達でも分かっていないような様子だ。その違和感の正体に、彼らはまだ気づいていない。
その違和感に気づいているのは、アーシェただ一人だけだ。彼女はじっと、ウェッジを見つめている。
ちょうどその時、講義終了のチャイムが鳴り響く。
「お、ようやく退屈な講義が終わったか」
ウェッジは、周囲から注がれる視線を気にする様子もなく歩き出した。正体の知れない違和感が漂う講義室を、何事もなかったかのように、ひょうひょうとした足取りで出て行く。
「ま、待ってください、先輩!」
イリーナは慌てて立ち上がり、ウェッジの後を追って走り出す。
Dクラスの生徒たちとビンカーは、茫然とした面持ちで二人を見送っていた。まるで、夢から覚めきれていないかのような顔だ。
ビンカーは現実に引き戻されたように、わずかに首を振った。
「あ、ああ……諸君。来週は『帝国戦争博物館』の見学が予定されている。帝国軍がかつて行っていた非人道的な兵器開発、その記録を学ぶ重要な機会だ。各自、後日レポートを提出するように」
ビンカーはそう言って教卓の教本をまとめかけたが、ふと違和感に気付き、顔を上げた。生徒たちは誰一人として動こうとせず、ただ茫然としたまま、開け放たれた講義室の扉の先をじっと見つめている。
普段なら、ため息混じりの不満や小声の文句が飛び交う場面だというのに。今は教室全体が、どこか遠い場所に置き去りにされたかのような静けさに沈んでいた。
先ほどのビンカー言葉など、誰の耳にも届いていないのは明らかだった。
ビンカーは小さくため息をつき、教卓に置かれた教本を両手で持ち直すと、トントンと静かに教卓の上で叩いた。だが、それでも生徒たちの様子は変わらない。仕方なく、わずかに喉を鳴らし、ようやくその視線を自分へと向けさせる。
「コホンっ。諸君、来週の帝国戦争博物館での見学だが、レポートの提出は忘れぬように。提出を怠った者には、それ相応のペナルティを受けてもらう。心しておくように」
そう言い残し、ビンカーは教本を抱えたまま講義室を後にした。生徒たちは、無言のままその背中をただ見送っている。何が起きたのか誰もが、まだ現実を理解しきれていないようだった。
やがて、張り詰めていた空気が緩み始めると、それを押し戻すかのように好奇心に満ちたざわめきが室内に広がっていく。
「……あれ、なんだったんだろうな」
「殺されるかと思った……冗談抜きで」
「あの隣にいた軍人の女性って何者なの? やっぱり本物は違うな……」
それぞれが席を立ち、次の講義へ向かおうとするなか、アーシェだけが席を立たず、考え込んでいた。
その様子を、ゼルが怪訝そうな目で見下ろしている。
「ほら、ゼル。何してんの? 早く行こうよ」
セルフィがゼルに声をかける。
「にしても、さっきの女の人、マジで怖かったね。正直、ゼルが本気で殺されるんじゃないかって思ったよ」
「そうだな。隣に座ってた俺まで、巻き添え食うかと思ったぞ」
ウォードはゼルにジロリと冷たい視線を向ける。
「私だって同じだよ。まったく、ゼルはすぐに調子にのるから」
セルフィはぷいっと顔をそらすが、ふと疑問が口をついて出た。
「でも、なんであの人、あんなに怒ったんだろう?」
その問いに、アーヴァインが椅子を引いて立ち上がりながら、肩をすくめて答える。
「そりゃあ……隣に座ってる軍人と同じレベルに見られちゃ、プライドが傷つくってもんだろ。自分まで安く見られる気がして、そりゃ頭にもくるさ」
「そういうものなのかな。だったら、次からはあの女軍人さんの前じゃ、口と態度に気を付けないとね」
セルフィは軽く笑ってそう言うと、教室を出ていこうとした。しかし、ふと立ち止まって振り返る。
ゼルはまだ席に座ったまま、じっとアーシェを見下ろしていた。
「どうしたの? ゼル?」
「……なんでもねぇよ」
ぶっきらぼうにそう言い残し、ゼルはようやく重い腰を上げて歩き出す。
記憶を掻き乱す、謎めいた気配

静まり返った教室に、アーシェだけがひとり残っていた。廊下から聞こえてくるクラスメイトたちの賑やかな声を耳にしながらも、彼女の思考はそこにはなかった。
(アイツ、あれほどの殺気の中で……どうして平然としていられたの?)
鈍感だっただけ?
けれど、ただの歴史学者にすぎないビンカーですら、あの異様な気配に気圧されていた。
考えれば考えるほど、疑念は形を持たないまま深みに沈んでいく。
アーシェは机の上で組んだ指を見つめていたが、ふと顔を上げる。
ウェッジが座っていた席を無意識に見つめた。そこにはもう誰もいないはずなのに、退屈そうに腰かけていたあの軍人の気配だけが、まだそこに残っているような気がした。
(……あいつ、一体、何者なの?)
心の中でそうつぶやいた瞬間、アーシェの胸の奥で、微かなざわめきが生まれる。青白い煙の向こうに揺れる、かすかな記憶の影。それはまだ輪郭を持たず、ただ不安な気配だけを残して、彼女の心を掻き乱していく。
アーシェは、まるで幻を追うようにウェッジが座っていた席をじっと睨みつけた。
教室を後にしたウェッジとイリーナ、その後

廊下はすでに講義を終えた生徒たちでにぎわい、笑い声と足音が通路を満たしている。
その喧騒の中を、ウェッジは雑踏を割るように無造作に歩き、その少し後ろをイリーナが影のように続く。
イリーナは先ほどの失態を引きずっているのか、わずかにうなだれたまま、俯いて歩いていた。対してウェッジは、まるで魂の抜けたような気の抜けた顔で前を向いている。
「腹減ったな。食堂にでも行って昼飯にするか」
ウェッジが気だるげに独りごちる。いつもなら、ここで即座にイリーナの小言が飛んでくるはずだった。だが、返ってくるはずの声はない。
不審に思ってちらりと後ろを振り返る。
イリーナは顔を伏せたまま、まるで叱られた子どものようにしゅんとうなだれて歩いていた。
「はぁ……」
ウェッジは、厄介事を前にしたときのような浅いため息をひとつ漏らし、視線を前へと戻す。言葉はなく、ただ歩みを続けた。イリーナもまた、沈黙のまま、その背中を追うように歩き続けた。
二人がそのまま廊下を進んでいると、生徒たちのざわめきがひときわ高まった。行き交う生徒たちの視線は、まるで吸い寄せられるようにウェッジに集まる。
その目には、隠すことのないあからさまな嘲りが浮かんでいた。ひそひそと交わされる声。押し殺した笑いが、廊下のあちこちで弾ける。
「なぁ、聞いたか? あの噂……」
「聞いた聞いた。Dクラスの実戦訓練で、スライム相手に負けたって話だろ?」
「いやいや、さすがにそれはデマじゃないの?」
「マジだって。Dクラスの連中が言ってたんだよ」
どこからともなく、そんな声が次々と飛び交う。周囲の生徒達がウェッジを見る目は明らかに見下している。
すでに学園内に広がっていたウェッジにまつわる醜聞に、先日のDクラスとの実戦演習での失態が決定打となっていた。生徒達に中でのウェッジへの格付けはすでにすまされている。今や、軍から派遣された指導官という肩書きなど、とうに意味を失っていた。
露骨な蔑みと嘲笑が、容赦なくその背中に浴びせられる。
だが、ウェッジはそんな視線や言葉の渦の中を、意にも介さぬ様子で淡々と歩みを進めていく。あらゆる軽蔑も嘲りも、聞き飽きた雑音のように、ただ遠くへ流していた。
その背中を見つめながら、イリーナは小さく歯を噛み締めた。胸の奥でふつふつと、怒りが音を立てて煮え立っていく。
ウェッジを見下す、愚かな生徒たちへの怒りだ。だが、それ以上に、彼らの嘲笑をものともせず、ただ淡々と歩き続ける、その背中が腹立たしかった。
イリーナは鋭く周囲を睨みつけた。その一瞥を受けた生徒たちは肩をすくめ、口を堅く閉ざして慌てて視線を逸らす。
だが、イリーナの怒りは一向に収まらなかった。その苛立ちは、気づけば前を歩くウェッジの背中へとまっすぐに向けられていた。
いつの間にか、イリーナの纏う空気が変わっていた。冷たく、鋭く、目には見えぬ刃のような気配が廊下に満ちていく。その場にいた生徒たちは理由もわからぬまま、背筋に走る悪寒に凍りつき、次々と視線を逸らす。そして、まるで鋭い剣先を喉元に突きつけられたかのように怯え、蜘蛛の子を散らすように足早にその場を去っていった。
廊下に残るのは、重く沈んだ静寂と、なおも揺るがぬ歩みを進めるウェッジの背中だけだった。
辟易したように、ウェッジはため息をひとつ漏らし、足を止めて振り返る。
「お前なぁ……何がそんなに不満なんだよ」
イリーナはウェッジをきつく睨みつけた。その目は静かな怒りが揺らいでいる。
「むしろ、先輩はどうしてそんなに平然としていられるんですか?」
イリーナは、食ってかかるように声を荒げた。だが、ウェッジは面倒くさそうに頭をかきながら言う。
「俺はガキどもの前で下手を打った。それは事実だ。なら、ガキどもになめられるのは当然だろうが」
「それでも……悔しいじゃないですか。どうして、そんなふうに割り切れるんです?」
イリーナは必死に訴え、握りしめた拳が小さく震えていた。その様子に、ウェッジは困ったように視線を逸らす。叶うはずもない無垢な少女の願いを突きつけられたかのように、ため息をひとつ漏らし、肩をすくめた。
「まったく……聞き分けのないガキじゃあるまいし。お前は俺に、どうしてほしいっていうんだよ。」
ウェッジは困り果てたような顔つきで言う。
その言葉と態度に、イリーナはふいに目を伏せた。胸の奥にくすぶる思いは、形を持たないまま渦巻き、言葉に変える術さえ見つからない。それでも、やがて、かすれるような声が、どうにか唇からこぼれ落ちた。
「わ、私は……悔しいんです。全部知っているから。何もかも、知っているから……ずっと、ずっとあなたを見てきたから!」
ウェッジは眉をひそめると、小さく首を振った。
「だからって、ガキ相手にマジ切れするのは、さすがに大人気ないだろうが」
その無頓着な言葉に、イリーナの胸の内で、複雑な感情が音もなく膨れ上がっていく。くすぶる想いは、理屈では飲み込めても、心ではとても受け入れられなかった。冷静になれば、自分がどれほど大人気ないことを言っているのかも分かっている。
それでも、イリーナにはどうしても自分を抑えきれなかった。
「あなたがバカにされるってことは、死んでいった仲間たちまで笑われてるってことですよ……!」
その一言に、ウェッジは苦い表情を浮かべ、しばし黙り込む。
イリーナのまっすぐな視線を、正面から受け止め続けるしかなかった。
「これまで私たちが帝国のために、あなたと一緒に戦場を駆け抜けてきたのは……こんな屈辱を味わうためじゃないんです!」
イリーナの声には、押し殺せない悔しさがにじんでいた。必死に訴えかけるその姿は、ウェッジの目には、泣きじゃくる幼い少女のように映る。
しかし、ウェッジは、その言葉を容赦なく斬り捨てた。
「あきらめろ。すべては黙秘――それが命令だ。そして、それが兵士ってもんだろうが。お前は、それを理解した上で軍に入ったんじゃなかったのか?」
容赦のない現実を突きつけるように、その声はひどく冷たかった。そう言い捨てると、ウェッジは踵を返し、迷いのない足取りでイリーナに背を向けた。
イリーナは、その背中をただ見つめるしかなかった。理解はしている。これが現実であり、命令であり、兵士として受け入れるべきことだと。けれど心は、どうしてもそれを受け入れようとはしなかった。胸の奥に、重く沈むものが広がっていく。分かっているはずなのに、裏切られたような痛みは消えてくれない。
立ち尽くしたままの視線は、まるで置き去りにされた少女のように、遠ざかるその背中を追い続けていた。
「それに、あいつらがそんなことを気にするような連中だったか? 笑いたい奴には笑わせておけ。そういう連中は、大抵あとで派手に恥をかく……戦場じゃ、それが常だったからな。」
ぶっきらぼうに放たれたその言葉は、イリーナの胸に積もっていた鬱屈を、風が吹き払うように消し去っていく。さきほどまで自分を締めつけていた悩みが、ふと馬鹿らしく思えた。気づけば、口元に小さな笑みが浮かんでいた。
慌ててその背中を追いかけながら、イリーナはようやく声を上げた。
「ま、待ってください、先輩! ……っていうか、どこに行くつもりなんですか!」
「腹が減ったからな。なんか腹に入れないと死にそうだ」
ウェッジは立ち止まりもしなければ、振り返りもせずに言う。
「まだ昼前ですよ、食堂は開いてません!」
イリーナはやれやれと肩をすくめた。
それでも、その口元にはようやく、いつもの調子が戻ってきていた。
「それより、分かってますよね? 先輩。」
「……何がだよ。」
追いついて横に並んだイリーナに、ちらりと横目を向けながら言う。
「午後はDクラスの対人戦闘訓練を見るんですからね。赴任してから初めての訓練だってこと、忘れないでくださいよ!」
「分かってるっての。あれだろ? 新兵の補充兵の時と同じ扱いでいいんだろ?」
「頼みますから、くれぐれもケガさせたり、最悪死なせたりなんてこと、しないでくださいね!」
「おいおい、お前は俺を何だと思ってんだよ。俺が一度でも新兵を死なせたことがあるか?」
「ありませんでしたけど……でも今回は、相手は子どもなんです。ちゃんと手加減してくださいよ!」
イリーナは眉間にしわを寄せ、ちらりと横目でウェッジをうかがう。
そんな視線を鬱陶しげに受け流しながら、ウェッジは歩みを緩めることもなく、片手をひらひらと振り、肩をすくめて気のない声を漏らした。
「……あぁ、できる範囲でな。」
「それが心配なんですよ」
イリーナの心配も意に介さず、ウェッジは無言のまま歩き続ける。
イリーナは隣を歩きながら、ただその横顔をちらりと見つめるだけだった。
あとがき

次は、いよいよウェッジの実力が示される場面を描く予定です。
そしていずれは、この物語の原点でもある『unknown fantasy』を、改めて書き直そうと考えています。
筆は遅くとも、自分のペースで一歩ずつ。
誰かが、どこかで読んでくれていると信じて。
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