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前回のあらすじ

戦争史の授業中、英雄は爆睡、教室は失笑。
だが、彼を侮辱した瞬間――空気が一変する。
イリーナの放った“殺気”に、生徒たちは凍りつき、
それをいなしたのは、当のウェッジの拳骨ひとつ。
誰もが理解できなかった、その異様な空気。
ひょうひょうと歩くその背に、アーシェの疑念が深まっていく――
初めての対人戦闘の訓練

午後、傾きはじめた陽光が競技場の中央に長い影を落としていた。ドーム状のその施設は、かつてシードの前身であるソルジャーたちの戦闘実験とデータ収集が行われた場所だ。開かれた天井からは高く澄んだ空が覗き、射し込む光が静かに場内を照らしている。
Dクラスの生徒たちは、昼食を終えたばかりの重たい腹を抱え、瞼の重さと必死に戦っていた。だが、その気の緩みを刺すような冷たい視線が、キスティスの美貌の下から鋭く飛んでくる。彼女の氷のような眼差しに、誰一人として気安く居眠りなどできるはずもなかった。
これから始まるのは対人戦闘訓練である。その初日とあって、キスティスは直々に立ち会っている。しかし彼女は、腕時計にちらりと視線を落とすたびに、わずかに眉をひそめていた。とっくに始業のチャイムは鳴っている。それでも、肝心の指導官はまだ姿を見せない。
「なぁ、いつになったら始まるんだよ?」
「まさか、ビビって逃げたんじゃねぇだろうな?」
生徒たちの間に軽蔑的な笑いが広がる。悪意を含んだ囁きは、薄暗い水面に落ちる小石のように、静かに波紋を広げていく。
「そこ、静かに」
キスティスの冷ややかな声が場に落ちると、ざわめきは瞬時に掻き消えた。だが、湿った空気のように漂う侮蔑の気配は、まだ場内に色濃く残っている。
静まり返ったフィールドに、ふいに遠くからにぎやかな声が響いてきた。男の苦しげなうめきと、それをたしなめる冷たい女性の声だ。そのやり取りは、誰の耳にも聞き覚えがある。
キスティスは眉をひそめ、面倒事の気配を察したかのように目を細めた。そして、そのまま競技場へと通じる通路に視線を向ける。通路の先から姿を現したのは、腹を押さえながら今にも倒れそうなウェッジと、呆れた様子で足早に歩くイリーナの姿だった。
「先輩、急いでください」
イリーナは冷ややかな目で、胃を押さえて苦悶の表情を浮かべるウェッジを振り返る。
「お、おい、ちょっと待て……うっぷ……走らせんなって。まださっき食った肉が暴れてやがる……動くたびに逆流してきやがる……」
眉間に深い皺を刻み、顔をしかめたウェッジは、左手で腹を押さえ、右手で口を覆いながら今にも膝をつきそうだ。それでもイリーナは歩みを止めず、小さくため息を漏らす。
「……自業自得です。というか、苦しくなるってわかってるのに、なんであんなに食べるんですか。バカなんですか?」
「うるせぇ……食えるときに食っとくのが戦場の鉄則だろうが……ッゲフ……ちょ、ちょっと休ませろ……」
「ここは戦場じゃありません。バラムガーデンです。それに、もう戦争は終わったんですよ」
「平和だろうが戦いは終わっちゃいねぇ……兵士ってのはいつだって常在戦場の――うっぷ……だ、駄目だ……俺はここまでだ……先に行け……」
イリーナは額に手を当て、大げさな芝居に付き合いきれないとばかりに肩を落とす。
「……先輩がいなかったら、誰がDクラスの訓練を見るんですか。バカなこと言ってないで、早く!」
言うが早いか、イリーナはくるりと踵を返し、スタスタと先を急ぐ。
「とにかく、急ぎますよ。見てください、あのとおり。もう全員集まって待ってるんですから!」
イリーナの視線の先にはすでに集まっている生徒たちが整然と並んで、指導官の到着を待ち構えていた。その背後にはキスティスが立ち、生徒たちに背を向けながらも、こちらに向けて険しい視線を投げている。表面上は冷静さを装っていたが、その瞳の奥には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「あぁ、めんどくせぇ……」
ウェッジは胃を押さえたまま、心底うんざりしたように呟く。その姿を見つけた生徒たちの間に、再びざわめきが広がった。視線には遠慮のかけらもない侮蔑と嘲笑が宿り、口元には薄く見下すような笑みが滲む。しかし、その雰囲気はイリーナが歩み寄るにつれて次第に霧散していった。
彼女の姿を目にした途端、生徒たちの脳裏に、ほんの数時間前の戦争史の授業で味わった“あの殺気”が生々しく蘇ったのだろう。途端にウェッジへ向けていた挑発的な態度は、不自然なほどあっさりと引っ込められる。視線は逃げる様に逸らし、誰一人として余計な一言を口にしようとはしなかった。
イリーナは迷いのない足取りで歩みを進め、キスティスの前でぴたりと立ち止まる。そして、流麗な動作で踵を鳴らして敬礼した。
「キスティス先生、遅くなり申し訳ありません」
その規律正しく、毅然とした軍人らしい所作に、キスティスの喉元まで込み上げていた苛立ちは、わずかに静まった。しかし、イリーナの背後から、まるで日課の散歩でもしているかのように悠々と近づいてくるウェッジの姿を目にした瞬間、そのわずかな冷静さも霧散し、胸の奥でくすぶっていた苛立ちに新たな火がくべられる。
「イリーナ少尉、次からは時間厳守でお願いしますね」
声はあくまで冷静だったが、その表情は怒りを堪えきれずにわずかに引きつっていた。キスティスはすぐに視線を移し、のんびりと歩を進めてくるウェッジに、氷のように冷たい眼差しを突き刺した。
「ウェッジ少尉、急いでください。もう授業は始まっているんですよ!」
その一言に、生徒たちの間でくすりと笑いがこぼれる。だが、ウェッジはというと、露骨に眉をひそめ、心底面倒そうだと言わんばかりに顔をしかめた。
キスティスはその態度に、ぴくりと眉間の皺を深くする。氷の仮面の下に、一瞬だけ怒気が走った。
「先輩、駆け足!」
イリーナが小声で促す。しかし、ウェッジは手をひらひらと振り、気だるげな動作で答えるばかりだった。
「わーってるよ……ったく、うるせぇな。何度も言わなくてもわかってるっての」
そう言いながらも歩幅は一向に速まらず、その姿はまるで真夏の陽炎のように、頼りなくゆらゆらと進んでいく。イリーナは深々と頭を下げ、キスティスに再び謝意を示した。キスティスはその姿に息を一つ漏らし、口元を引き締めると静かに語りかけた。
「イリーナ少尉、ウェッジ少尉。お二人には、こちらの要請に応えて指導官として赴任いただいていることは承知していますし、感謝もしています。しかし、ここは軍ではなく学園です。次代を担うシード候補生たちに接する以上、その模範となる態度と振る舞いを、どうか忘れないでください」
その声は穏やかでありながら、逆らいがたい威厳を帯びていた。教師として、そして現役のシードとしての誇りと揺るぎない信念が、キスティスの言葉の端々から自然と滲み出ている。
「はい、以後気を付けます。そして、あのバカには後で私からもきつく言っておきます」
「誰がバカだって?」
ようやくウェッジが到着し、イリーナの背後から不満げな声を上げた。イリーナは振り返ると、まるで悪びれる様子も見せず、冷ややかな視線でウェッジを見据える。
「先輩以外に誰がいるんです?」
「お前、俺相手だと……ほんと容赦ないよな」
「容赦も何も、バカなことをしているから、バカと言ったまでです」
「ほんと、お前ってやつは! 可愛げのかけらもねぇな!」
二人の軽口を咳払いで制し、キスティスが場の空気を引き締める。
冷めた視線、募る違和感

「それでは、指導官のウェッジ少尉も揃ったところで、対人戦訓練を開始します。その前に」
キスティスは静かに視線を送る。それに促され、イリーナが一歩前に進み出た。
「皆さんもすでに見知っているかと思います。彼女はウェッジ少尉と同様に軍から派遣された指導官です。主に初等部から中等部の戦闘指導を担当しています。イリーナ少尉、自己紹介を」
イリーナはキスティスに軽く一礼し、くるりと踵を返して生徒たちに向き直る。その動きは洗練され、まるで舞台上の演者のように場を支配する。
「イリーナ・レイヴァン、階級は少尉です。これより皆さんの訓練の一助となるべく、全力を尽くす所存です。よろしくお願いします」
声に迷いはなく、その凛とした立ち姿は、まさに帝国の誇りを体現しているかのようだった。所作は美しく、短く切り揃えられた金色の髪が陽光を受けてきらめき、イリーナが軽く頭を下げた瞬間、その髪がふわりと流れる。まるで一陣の清涼な風が通り過ぎたかのように、場の空気が一瞬、静寂に包まれた。
生徒たちの視線は自然とその洗練された動作に引き寄せられ、場のあちこちに柔らかなざわめきが広がっていく。特に女生徒たちの間には憧憬にも似た眼差しが交わされ、淡い熱気が場を包み込んだ。
無邪気な憧れを向ける、まだ幼さの残る純粋な眼差しに、イリーナはどう応えていいのか分からない様子だった。
小さく戸惑いの色を浮かべたまま、ぎこちない表情で生徒たちを見渡している。その仕草は、照れているのか、あるいはただ困っているのか。どこか居心地の悪さをにじませていた。
そんなイリーナをちらりと見やったアーシェは、すぐに視線を滑らせる。その先で彼女の目が捉えたのは、隣に気だるそうに立つウェッジの姿だった。無造作に立つその態度は、まるでこの場に居ることすら億劫だと言わんばかりだ。
アーシェの瞳はわずかに細め、その視線は冷たい刃のように鋭さを帯びる。疑念の色は隠すどころか、むしろ意図的に突きつけるかのようだった。脳裏にこびりついて離れない、先ほどの正体不明の違和感がアーシェに不快な苛立ちを募らせる。
(……あいつが何者なのかわからない。でも、この授業で、この違和感の正体が、わかるかもしれない)
脳裏にこびりついて離れない、先ほどの正体不明の違和感がアーシェに不快な苛立ちを募らせる。
「それでは……」
キスティスが静かに一歩、前へと歩み出る。その声に引き寄せられるように、生徒たちの視線が自然と集まった。場に満ちかけていたざわめきはすっと消え、張り詰めた静寂が辺りを包む。
「これより、対人戦闘訓練を開始します。本日は初日につき、私も立ち会わせていただきます」
そう告げると、彼女はわずかに顔を横に向け、ウェッジに目を向けた。その視線はどこか監視者を思わせる疑心が宿っている。彼女がこの場に立ち会う本当の理由はただ一つ。軍の推薦で送り込まれたこの男の実力と能力をキスティスは疑っていた。
「ウェッジ少尉、お願いします」
その冷ややかな眼差しは、ウェッジという存在の価値を冷酷に見定めようとしている。
ウェッジは無造作に一歩、前へ出た。その瞬間、生徒たちの視線が一斉に彼へと向かう。だが、その目に宿るのは敬意でも期待でもない。露骨な嘲笑と軽蔑の色が、隠そうともせず浮かんでいた。
だらしなく開いた軍服の襟、無造作にまくり上げられた袖、気だるげに立つその姿は見るからに締まりがない。隣に立つイリーナの隙のない軍装と並べば、その無頓着さはなお一層際立つばかりだった。ピンと背筋を伸ばし、磨き抜かれた軍靴のかかとを固く揃えて立つその姿は、誰もが目にする帝国軍人の理想像そのものだった。
まだ若く、将来を嘱望されたシード候補生たちにとって、実績も見た目もその人物のランクを示す明確な指標だ。彼らの目に映るウェッジという軍人は、取るに足らない存在でしかない。ただ軽んじ、侮り、嘲る。その対象として、そこに存在しているだけだ。
ただの臆病者。
ただの無能。
ただの……雑魚。
声なき声が場の空気に染み込み、冷たく淀んでいく。
Dクラス、爆発寸前――挑発された“選ばれし者”たち

「それじゃ、今日から対人戦闘の訓練を始めることになるんだが」
あくびを噛み殺しながら、ウェッジは気だるげに言う。右手で後頭部を無造作にかき、左手は自然と腰に下げた剣の柄に添えられていた。生徒たちの視線はその剣に向けられる。見慣れた訓練用の模擬剣だ。刃は潰され、実戦では到底役に立たない、誰もが知る“おもちゃ”に過ぎない。
「まぁ、その前にな……お前たちの“強さ”を、少し見せてもらう必要がある」
そう言うと、ウェッジはゆっくりとした動作で剣を鞘当てから抜き放った。その動きに無駄な力は一切ない。妙に緩やかでありながら、どこか鋭さを感じさせる不可解な気配が、わずかに空気を震わせる。まるで狩りの直前、息を潜めた獣のようだった。ただ立っているだけなのに、その身に秘めた鋭い爪と牙が、かすかな気配となって場の隅々にまで漂っていた。
だが、それに気づく者は、この場には誰一人としていなかった。
刃を潰された鈍い銀色の剣は、ただの鉄の棒のように見える。それを両肩に担ぎ、両端を軽く握る。背筋も伸ばさず、だらしなく力の抜けた姿は、誰の目にも取るに足らない凡庸な男にしか映らない。
「今から三人一組のチームを作れ。作ったら俺と勝負してもらう」
その一言に、生徒たちは一斉に顔を見合わせた。戸惑いの色が教場に広がり、ざわめきが薄く場を満たす。
キスティスがすかさず一歩前に出る。抑えきれない動揺が、その声に滲んでいた。
「ウェ、ウェッジ少尉。それは……三人を同時に相手にするということですか?」
「そうだ。別に問題ないだろう?」
ウェッジはあっさりと応じた。その瞬間、場内は一気にざわめきに包まれる。
「冗談だろ……?」
「正気なの?」
「マジで言ってんのかよ……」
「本気で、一人で三人を相手にするつもりなの?」
困惑と嘲笑が入り混じる声が飛び交う中、突如として、そのざわめきを吹き飛ばす怒声が響き渡った。
「ふざけてんじゃねぇぞ!」
割れんばかりの怒声がドーム型の競技場内に響く。怒声の主はゼルだ。その声は抑えきれぬ苛立ちと、燃え立つような誇りが混じり合っていた。その瞳には、荒ぶる闘志が剥き出しになり、今にも火花を散らさんばかりにウェッジを射抜いていた。握りしめた拳は白くなるほどに力が込められている。
「おい、てめぇ……なめたこと言ってんじゃねぇぞ!」
ゼルは肩をいからせ、堂々と一歩前へと踏み出す。歯を食いしばり、今にも飛びかからんばかりの剣呑な視線をウェッジに向ける。
「俺たちはなぁ、能力と才能を認められて、ずっとここで鍛え上げてきたんだ!」
言い切ると同時に、ふっと嘲るような笑みを浮かべる。それは、薄っぺらな自尊心を満たすだけの、歪んだ笑みだった。
「幼い頃から、毎日血のにじむような訓練を積んできたエリートだ! お前みたいな、スライム相手に負けた腰抜けの軍人と一緒にされちゃ困るんだよ!」
その声には、未熟な自尊心と過剰な誇りが剥き出しになっていた。幼い頃から競わされ、勝ち続けることでしか自分の価値を証明できなかった者特有の、脆くも尖った優越感だ。
「いいか、俺たちは“選ばれた人間”なんだよ! お前みてぇな、戦場にも出たことねぇ腰抜けとは、生きてる世界が違うんだ!」
ゼルが吐き散らした感情は、この場に集まるシード候補生たちの声を代弁していた。嘲るような笑いがさざ波のように広がっていく。ゼルの言葉に乗せられるかのように、周囲の生徒たちも次々と薄ら笑いを浮かべはじめた。
彼らの目に映るウェッジは、相手との力量すら測れない、自分の無力さにも気づかぬ滑稽な敗者だった。侮蔑の視線が集まり、哄笑がドーム内に鳴り響く。その中心で矛先を向けられたウェッジは、ただ怠そうにゼルを見返すだけだった。騒音のような罵声など聞こえていないかのように、ウェッジの瞳はただ無関心に揺れていた。
ウェッジの涼しげな態度が、ゼルの苛立ちにさらに油を注いだ。声を張り上げるその顔は、怒りに紅潮している。
「今、この場で土下座して謝るんなら、てめぇとの試合で手加減してやってもいいぜ!」
その瞬間、生徒たちの間に嘲笑が完全に広がった。ゼルの挑発に呼応するように、ウェッジへの罵詈雑言が怒涛のように押し寄せる
本来ならば、生徒を窘める立場にあるキスティスは、しかしあえてこの状況を黙して見つめていた。それは、彼女自身もまたウェッジの言動を快く思っていないからだ。
ウェッジが何を考えているのかを理解しようとも思わない。ただ一つだけ確かなのは、彼がシードという存在を侮ったことだけだ。
シードとは、戦災復興のため、各地で発生するあらゆるトラブルに対処するべく設けられた、戦闘のプロフェッショナルである。この場に集う生徒たちは、そのシード候補生として選ばれ、努力を積み重ね、才能を磨き上げてきた。
そして、キスティスは担任として、その努力と能力を誰よりも理解している。
その彼らに向かって、有象無象の弱者でも相手にするかのように、「まとめてかかってこい」などと吐き捨てた男がいる。ならば、その大言壮語に見合うだけの実力を、この場で示してみせろ――それが、今この場にいる全員の心の声だった。
この場を収める術は、もはや言葉ではなく力だけだ。もし、その力がなければキスティス自身が学園から追い出すつもりでいた。
生徒たちの挑発と罵声が飛び交う中、ウェッジはひとつ、深くため息を吐いた。それは怒りでも呆れでもない。ひどく色の抜けた、まるで青色吐息のような、疲労と倦怠の混じったため息だった。
「……いちいち、一人ひとり相手して実力測るなんて、やってらんねぇよ。面倒くさすぎる」
その一言に、先ほどまでウェッジを笑い者にしていた生徒たちの表情が凍りついた。一瞬の沈黙が、空気を刺すように突き刺さる。
「本当はよ、小隊任務と同じ人数である五人まとめてでもいいと思ったんだ。でも、それじゃ試合ってより潰し合いになっちまう」
言いながら、ウェッジは視線をゆるやかに巡らせた。若く、未熟ながらも高いプライドを抱えたシード候補生たち。その怒りに燃える瞳を、意図的に無視するように。まるで道端に転がる石を見るかのように、無遠慮に一人ひとりを流し見ていく。
その無味乾燥とした視線は、確実にエリート達の傷ついたプライドに塩を塗り込んだ。
「だから、連携の取りやすい三人組にした。それが一番、お前達の実力を見るのに“ちょうどいい”はずだ」
その言葉は、冗談のように軽い口調ながら、確かな自信と余裕を孕んでいた。
ゼルは怒りの限界を超え、もはや敵意を剥き出しにしてウェッジを睨みつける。それは、軽蔑や侮りではない。ゼルがウェッジ見つめる視線は、純然たる憎悪だ。
「だからよ……てめぇの言ってる意味が理解できねぇんだよ!」
怒鳴りながら一歩踏み出すゼルに、ウェッジは肩をすくめ、やれやれと言わんばかりにもう一度ため息をつく。そして、今度ははっきりとした口調で言い放った。
「いや、だからさ。お前ら全員を相手にしても問題ないんだよ。そうでもしないと、試合にならねぇからさ」
言葉を探すように一拍置きつつも、その目だけは嘘をついていなかった。
ゼルは怒りに顔を歪め、吠えるように叫んだ。
「てめぇ、わかってて言ってんだろうな!? スライムにすら負けるような雑魚がよ、俺たち、シード候補生として選ばれた俺達を、ただの雑魚だって言ってんだぞ!」
ウェッジは、ゼルの怒声をまるで壁越しに聞くような無気力な表情で受け止める。
だが次の瞬間、ふっと口元だけで笑った。
「なんだ、ちゃんと俺が言ってる意味、わかってるじゃねぇか」
その一言が、場の空気を確かに変えた。生徒たちの表情に緊張の色が走る。笑いは消え、嘲りは沈黙へと変わり、空気がじわじわと張り詰めていく。無数の剣が突き立つような剣呑な気配が、ウェッジの体を静かに刺し貫いていく。Dクラスの生徒全員が、このウェッジという名の軍人を敵だと認識した瞬間だ。
静かなる怒り、言葉にならぬ誇り

キスティスはわずかに目を見開き、困惑の色を浮かべた。場の空気は明らかに殺気を孕み、今にも火花が散りかねない緊張が張り詰めている。このままでは危険だ。教師として、これ以上の暴走は見過ごせない。そう判断した彼女がそっと身を乗り出しかけた、その瞬間。
ウェッジの一言が、その動きを遮った。
「ほらほら、さっさと三人のチームを作れよ。時間がもったいないだろうが」
ウェッジが面倒くさそうに言い放つ。そのあまりの軽薄さに、キスティスは唖然とした表情で彼を見つめた。まるで正気を疑うような目だ。
そしてその瞬間、場の空気が爆ぜた。
「てめぇ、殺されても文句言うんじゃねぇぞ!」
ゼルの怒声が轟く。狂犬のような雰囲気を纏っている。敵意を漲らせ、牙を剥き出しにして怒りを爆発させている。ゼルの怒気が引き金となり、他の生徒たちの敵意にも火が点いた。全員が一斉にウェッジを睨みつけ、視線には露骨な嘲笑と敵意が混じっていた。まるで獲物を囲む獣の群れのように、彼らの眼差しが鋭く突き刺さる。
だがウェッジは、それすらもまるで楽しむかのように、薄く笑みを浮かべて受け流していた。
キスティスは、どうするべきか迷っていた。明らかに状況は予想を越えて暴走し始めている。
「ゼル、やめなさい! みんなも落ち着きなさい!」
キスティスの冷厳な声が響いた。だが、すでに熱しきった空気は、その一声では冷めきらない。場の緊張は臨界点を超え、今にも爆発しそうな圧力で膨れ上がっていた。
「無理だ! 先生、そもそもこれは、こいつが始めたことなんだよ!」
ゼルが叫び返す。キスティスの制止を真正面から打ち消す。
そんなゼルの怒りを、ウェッジはまるで取るに足らないものでも見るかのように、鼻先でせせら笑った。まるで子犬の無駄吠えに付き合うような余裕すら漂わせている。
「それじゃ、準備ができた奴から始めていくぞ」
気だるげにこぼれたその一言は、場に渦巻く熱気とは不釣り合いなほど淡々としていた。挑発でも命令でもなく、ただのつぶやきだ。だが、その無神経さは、生徒たちの怒りに火をつけるには十分だった。
ウェッジは、生徒たちの睨みも、キスティスの困惑も意に介することなく、無言のまま背を向ける。そして、ゆっくりとドームの中央へと歩み出していった。その背中を追うように、キスティスも慌てて数歩を踏み出す。
「しょ、少尉、本気なんですか?」
呼びかける声に、ウェッジは肩越しに振り返った。表情には嬉しそうな色が浮かんでいる。
「おいおい、アンタは何をそんなに心配してんだよ。……もしかして、俺のことを心配してくれてんのか?」
気の抜けたような調子でウェッジは笑いながら言う。その軽口に、キスティスの目がすっと細くなる。冗談を一切受け入れない冷たい視線だ。張りつめた氷のような眼差しに、ウェッジの笑みがわずかに引きつる。
「ウェッジ少尉、真面目に答えてください」
キスティスの声音は静かでありながら、芯に鋼のような厳しさを秘めていた。
ウェッジは、肩をすくめると、落胆を隠すように小さくため息を漏らした。
「何をだよ……」
「ですから、本気で三人を同時に相手にして、模擬戦をするつもりなのかと聞いているんです」
「……相手はまだガキだろうが」
「えぇ、確かにあの子たちはまだ子供です。ですが、シード候補生でもあるんです」
キスティスは、教師としての立場から辛うじて冷静さを保とうとしていた。この場を統制するのは自分の役目であり、感情を交えるべきではない。理屈では、そう理解している。
だが、目の前の男が、その冷静を揺るがせる。
傲慢な態度もさることながら、シードという存在を軽んじる無自覚な挑発が、胸の奥底から静かな怒りを呼び起こす。その言葉のひとつひとつが、生徒たちだけでなく、シードとして戦災復興の為に危険な任務に懸ける努力と誇りを踏みにじるものだった。
キスティスは、悔しさを噛み殺すように唇を噛み締める。教師としての理性と、自らもシードとしての矜持。その狭間で、彼女の感情が静かに沸騰していく。
「彼らはシード候補生です。才能を認められ、厳しい訓練を経て、その才能と能力を認められた者たちです。たしかに、貴方が言うように精神面では未熟な部分もあるでしょう。ですが、だからこそ、彼らは本気になります。自分たちを侮った相手を、全力で叩きにくる」
その言葉には、教師としての、冷静な警告の両方が込められていた。
しかし、ウェッジは気にも留めないように肩を竦め、あくまで余裕の笑みを浮かべて返す。
「ふん……それで? 最悪の結果ってのは、なんだってんだ」
キスティスは一瞬、言葉を選ぶことを煩わしく感じた。だが、それ以上にウェッジの超然とした態度が、どうにも癇に障った。
彼女は静かに、しかし鋭く言い放つ。
「それは……彼らの実力を見誤ったあなたの末路です」
空気が凍りついた。
だが、ウェッジはその緊張を破るように、愉快そうに笑った。
「そしたら、見誤ったバカが一人死ぬだけさ。問題ないだろ?」
余裕とした笑みを浮かべて、悠然と歩くウェッジの背中にむかってキスティスはいう。
「問題ないわけが、ないじゃないですか……」
キスティスの声が震えを帯びる。だが、彼女の言葉は、ウェッジの背に届くことはなかった。
彼はすでにフィールドの中央に立ち、肩を回し、首を鳴らしながら準備運動を始めている。キスティスの助言と忠告は完全に聞き流されていた。
キスティスは苛立ちを滲ませながら、先ほどからこの状況を傍観し、一言も発さずいる一人の教官であるイリーナへと視線を向ける。
「イリーナ少尉! お願いです。貴女からも、何か言ってください」
その声には、懇願に近い必死さが滲んでいた。
だが、返ってきたのは、あからさまに見せつけるような、重いため息だった。
イリーナは、明らかに億劫だと言いたげな空気を隠そうともせず、面倒そうに息を吐く。
「キスティス先生。私たちは、対人戦闘訓練のためにここに派遣されています。あなたの立場は理解しますし、気持ちも分からなくはありません。ですが――」
その言葉と同時に、イリーナの目が鋭く光る。キスティスの口を封じるように、刺すような視線を突きつける。そこには、隠そうともしない敵意がはっきりと宿っていた。
「素人が、私たちプロに口を挟まないでください」
その一言は、刃のように鋭く、容赦なく冷たかった。
キスティスは、その剣呑な圧力に気圧され、反論の言葉を喉に詰まらせる。だが、あからさまな侮辱には、怒りが湧かないはずがなかった。理由は解らないが、彼女は明らかに“なじられた”のだ。
鋭い視線を向けてくるキスティスを一瞥もせず、イリーナはウェッジに向かって声を飛ばした。
「先輩、分かってますよね?」
振り返ることもなく、ウェッジは気だるげに応える。
「しつこいな。分かってるって、何度も言わせんなよ」
「くれぐれも、生徒に怪我をさせないようにお願いします」
「へい、へい」
その軽い返答に、キスティスは呆れと怒りとで言葉を失った。この緊迫した場面で、あまりにも平然とした二人のやり取りに、現実感が薄れていくような感覚を覚える。
そんな彼女に、イリーナが冷たい声音で告げる。
「キスティス先生。そこに立たれていては、始められません。退いてください」
「しょ、正気とは思えない……」
キスティスは、不服げにその場に立ち尽くしたまま、視線だけを二人に向ける。
だが、その時男子生徒の怒鳴り声が響き渡った。
「キスティス先生! もういいだろうが!」
怒声が空気を裂いた。
キスティスが思わず振り返ると、そこには怒りに身を震わせるゼルの姿があった。
あとがき

物語が長くなりそうだったので、今回は前後編に分けることにしました。
後編は、できるだけ早く仕上げたいと思っています。
ちなみにイラストは、AIに本文を読み込ませて、シーンに合いそうな場面を自動生成したものを載せています。
なかなかイメージ通りとはいきませんが、少しは雰囲気が伝わるかな……?
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